有名な演歌歌手の吉幾三さんについて、いろんなことを取り上げていきたいと思います。
もはや、日本を代表する演歌歌手の1人である、吉幾三さん。
それだけに、吉幾三さんがこれまでにどういった道を歩んできたのか、興味は尽きません。
そこで、これから吉幾三さんのプロフィールを確認してまいりましょう。
そんな吉幾三さんといえば、もっとも有名な曲といっていいのが、「俺ら東京さ行ぐだ」ではないかと思います。
この「俺ら東京さ行ぐだ」の売上枚数がどれくらいだったのかや、歌唱動画、吉幾三さんの『NHK紅白歌合戦』への出場回数も調べてみましたので、ぜひ、ご覧ください。
1.吉幾三の経歴
吉幾三さんは、1952年11月11日、青森県の出身で、2020年12月現在の年齢は、68歳となっています。
本名は「鎌田善人」でした。
身長は178センチ、体重は70キロ、血液型はB型。
長女は歌手のKUさん、次女は女優の寿三美さんという、芸能一家です。
吉幾三さんは、民謡歌手の鎌田稲一さんの息子として生まれました。
そして中学校を卒業した後、家族から反対されつつも、歌手になろうと家を出て、米山正夫さんのもとで修業することに。
やがて吉幾三さんは、1973年に、「山岡英二」名義にて、シングル「恋人は君ひとり」のリリースによって、歌手デビューをはたしたのです。
しかし、これは演歌歌手としてではなく、なんと、アイドル歌手であって、うまくいきませんでした。
その後、吉幾三さんは、1977年、現在の名義に改名して、フォーク歌手として、シングル「俺はぜったい!プレスリー」をリリースしたことによって、再デビュー。
今度はヒットして、吉幾三さんは、演歌へと移ることになります。
さらに、1984年、千昌夫さんに提供したシングル「津軽平野」がヒットしたため、作曲家としても活躍し、同年、逆に、千昌夫さんがプロデュースしたシングル「俺ら東京さ行ぐだ」がヒットを遂げたのでした。
そして1986年には、みずから手がけたシングル「雪國」が大ヒットして、演歌歌手としての地位が確立したのですね。
まさか、吉幾三さんに、ここまで紆余曲折あったとは、おどろきでした。
その後、吉幾三さんは、2008年には、自身の楽曲がネット上で加工されたものが流行ったことによって、ブームになるなど、さまざまな話題を提供していきます。
これまでに吉幾三さんが発表してきた楽曲は、おもだったものだけでも、「ゲゲゲの鬼太郎」、「酒よ」、「酔歌」、「立佞武多」、「Dream」、「男ってやつは…」などとなっていました。
こうした実績もあって、吉幾三さんは、2016年には、日本作曲家協会音楽祭特別選奨を受賞するなど、その音楽性は高く評価されていきます。
一方で、吉幾三さんは、音楽だけにとどまらず、多彩な才能を発揮。
ハワイのホテルのシェラトン・ワイキキにある、吉屋という日本料理レストランをプロデュースするなど、実業家としても活躍していたのでした。
これから先も、まだまだ、いろんな世界で、吉幾三さんにはばたいていってほしいですね。
2.吉幾三の学歴
それでは、吉幾三さんの通っていた学校は、どこだったのでしょうか。
すでに述べました通り、中学校は金木町立金木南中学校です。
しかし、小学校は分かっておらず、高校以降については、進学していませんでした。
偏差値が高い高校、大学を卒業しているパターンもすごいですが、こういったパターンも逆にすごいですよね。
ちなみに、金木町立金木南中学校は、現在では、五所川原市立金木中学校となっていました。
3.吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」の売上枚数や歌唱動画
吉幾三さんといえば、もっとも有名な曲は「俺ら東京さ行ぐだ」ですよね。
それでは、「俺ら東京さ行ぐだ」の売上枚数は、どうなっていたのでしょうか。
日本語ラップの元祖とされる伝説的な曲だけに、気になりますが…?
なんと、オリコンによれば、売上枚数は、約35万枚とのこと。
あまりの売れ行きのすごさに衝撃を覚えました。
そんな吉幾三さんは、「俺ら東京さ行ぐだ」の歌唱動画も話題に。
自身の楽曲がネット上で加工されたものが流行っただけありますよね。
きっと、今後も末永く演歌界を盛り上げてくれることでしょう。
4.吉幾三の『NHK紅白歌合戦』出場回数
吉幾三さんは、これまでに当然、『NHK紅白歌合戦』にも出場してきました。
では、吉幾三さんが『NHK紅白歌合戦』に出場した回数は、何回だったのでしょうか…?
初出場は1986年のこと。
披露した曲は「雪國」で、対戦相手は斉藤由貴さんでした。
これ以降、吉幾三さんは、なんと、2001年まで、16回も連続出場していたのです。
最後の出場で披露した曲は「出逢いの唄」で、対戦相手はモーニング娘。。
さすがとしか言いようがありませんね。
演歌界の大御所として、だれもが知っている、吉幾三さん。
しかしながら、これまでにいろんな流れがあり、たくさんのジャンルで活動していたとは、予想外でした。
自身のキャリアだけではなく、後進の育成でも結果を出しているだけに、ますます貴重な存在になっていくことでしょう。